「わからない」に逃げ込むな~低線量被曝の報道を問う~
(2014年8月エネルギーフォーラム誌に寄稿)
今年4~5月、久しぶりに低線量被曝の健康影響がメディアにこぞって取り上げられた。「美味しんぼ」騒動のためだ。東京電力福島第1原発事故から3年半の報道と、美味しんぼ騒動での新聞社説や記事を見ると、どこに報道の問題があったのかが見えてくる。
4月下旬、「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)の連載漫画「美味しんぼ」で、主人公が福島第1原発を訪れた後、鼻血を出す場面が描かれていた。これがメディアに取り上げられ、大きな話題を集めた。5月発売の次号では、福島県双葉町の前町長が「福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたからですよ」、福島大学准教授が「福島はもう住めない、安全には暮らせない」と、それぞれ実名で語る場面が掲載された。岩手県の震災がれきを受け入れて処理した大阪市内で、住民が健康被害を訴えたとする話も紹介された。
菅義偉官房長官は記者会見で「住民の放射線被曝と鼻血に全く因果関係はないと、専門家の評価で明らかになっている。そうしたことを政府としてしっかり広報、発信していくことが大事だ」と述べた。福島県は「福島県民を傷つけるものであり、産業分野に深刻な経済的損失を与えかねない」、岩手県や大阪府・市は「がれきの放射線量は基準値を大幅に下回っている」と、「美味しんぼ」の記述を批判した。
新聞各紙はこの動きを記事や社説で扱った。社説の見出しを並べてみよう。
読売新聞 風評助長する非科学的な描写
朝日新聞 「是非」争うより学ぼう
毎日新聞 「鼻血」に疑問はあるが
産経新聞 独善で風評を助長するな
東京新聞 美味しんぼ批判 行き過ぎはどちらだ
読売と産経はともに「放射性物質による直接の健康被害は確認されていない」としたうえで、「一方的な見解を拡散させることで、福島県民の不安を増幅させていいのだろうか」(読売)、「科学的根拠と客観性、さらに結果への配慮が決定的に欠ける」(産経)と厳しく批判した。
一方、朝日は「低線量被曝には未解明の部分が多い」、毎日は「長期間にわたる低線量被曝が健康にどんな影響を及ぼすかについては十分には解明されていない」と述べた後、「ひとつの作品を取り上げて過剰に反応したり、大学の学長が教職員の言動を制限するような発言をしたりすることには、賛成できない」(朝日)、「原発の安全性や放射線による健康影響を自由に議論すること自体をためらう風潮が起きることを懸念する」(毎日)と、美味しんぼへの政府などの批判が「言論の自由」の抑圧につながる危惧を表明した。東京新聞は「時間をかけた取材に基づく関係者の疑問や批判、主張まで『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」と、美味しんぼに理解を示した。
朝日や毎日の主張する「低線量被曝には未解明の部分が多い」というのは本当か。化学物質のリスクを長年研究してきた中西準子・産業技術総合研究所フェローは「放射線影響について、わかっていないと言われるが、これほどわかっているものは他にない」と指摘する。放射線リスクは化学物質のリスクに比べると格段に「わかっている」のだ。
事故後まもない時期には、「年間100ミリシーベルト(mSv)以下の低線量被曝のリスク」が議論された。100mSvは「将来のがん死の増加」という確率的影響が表れるかどうかの境目に近い数値であるから、激しい論争になった。
ところが、その後の外部被曝、内部被曝の調査により、現実の福島県民の被曝量はそれよりもずっと低いことが明らかになった。2011年後半に実施された福島市のガラスバッチ調査によると、87%は年間換算2mSv未満だった。現在は当時よりも空間線量は半減しているから、大多数の人は1mSv未満だと考えられる。南相馬市立総合病院のホールボディカウンター検査では、「未検査の天然食材を継続して食べている人」以外からは放射性セシウムが検出されなくなった。福島市の生活協同組合「コープふくしま」による食事調査では、90%以上の家庭の食事からは放射性セシウムが検出されない。内部被曝は外部被曝に比べて2桁か3桁少ないと考えられる。
年間1mSv程度、最大限に見積もっても5mSv程度の追加被曝だ。このレベルの被曝によって健康影響が出ると考える専門家はごく一握りしかないだろう。こうした実測データの蓄積を無視して、いつまでも「わからない」と書くのはメディアの怠慢であり、福島県民の不安を固定化させることにつながる。
「わからない」とともにメディアが使いがちなのは「予防原則」だ。「低線量被曝の影響は十分にはわからないのだから、予防原則に則って、影響がありうると考えて対応する必要がある」といった主張をしばしば見る。予防原則は地球温暖化防止の国際交渉などで取り入れられている。
しかし、低線量被曝にこれを適用することは適切ではない。予防原則は「深刻な、あるいは不可逆的な被害の恐れがある場合においては、完全な科学的確実性の欠如が、費用対効果の大きな対策を延期する理由に使われてはならない」(環境と開発に関するリオ宣言)と定義される。福島県民の被曝レベルは極めて低く、「深刻な、あるいは不可逆的な被害の恐れがある場合」に該当しないことは明白だ。被ばくを低く抑えることは望ましいが、費用対効果を考えなければならない。適用されるべき考え方は予防原則ではなく、「ALARA」(合理的に達成可能な限り低く抑える)である。
新聞やテレビなどのメディアは一般に、「危ない」という情報は大きなニュースにするが、「危険性は少ない」という情報は小さくしか扱わない。「中立報道」を原則にしているため、低線量被曝の影響を取り上げる場合、従来の知見を述べる専門家と、科学的根拠なしに内部被曝を過剰に危険視する専門家を、並べて記事にすることが多い。9割の代表意見と1割の少数意見を同格に扱う報道によって、読者は混乱した。
こうしたメディアの特性が、低線量被曝による健康影響についての人々の適切な理解を妨げる結果を招いた。今なお、被曝への不安を抱く福島県民が多いことはメディアの責任でもある。メディアは「わからない」に逃げ込まず、実測データに基づく報道、論評をすることが求められている。